占星術師 耶律楚材(2)
耶律楚材は、若かりし頃、万松行秀禅師に師事し、禅の修行に励み、湛然居士と号した。また、占星術の七政四餘を修め、中国古来からの卜占を学んだ。
七政四餘の研究者・東山宗憲先生によると、耶律楚材の学んだ七政四餘は、「天官経」に依拠するもので、惑星間と惑星・星座間の五行の相生・相剋を重視するものであった、とお話されたのを記憶している。
契丹の遼が女真の金に攻め滅ぼされたとき、遼の宗族である耶律大石が契丹人を引き連れ、モンゴル高原を横断し、ウィグルから中央アジア方面へと移動し、その地を治めていたカラ=ハン朝を倒して、西遼を建国した(1133年)。
さらに、セルジューク朝軍を破り、サマルカンド、ブハラなどの西トルキスタンの主要な交易都市を支配したが、イスラムのホラズム朝の台頭で圧迫を受け、さらに、チンギス・ハーンに敗れ追われてきたナイマン・ハーンにより帝位を簒奪された。
しかし、チンギス・ハーンはナイマンを打ち破り、西遼の遺領と遺民を引き継ぎ、直接ホラズム王国と対峙することとなった。
ホラズムは、中央アジアと現在のイランを版図とする大国で、南はペルシア湾に面していた。
チンギス・ハーンはホラズムとの通商を望み、通商使節を同国へ派遣したが、オトラルの総督イナルチュク・ガイールが、その通商使節が、中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。
モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着したが、国王のアラーウッディーンは親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した。
チンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャー(国王)への復讐を決し、1219年にハーン自らモンゴル軍を率いて大規模な侵攻を開始した。
ホラズム朝の王・アラーウッディーンは、兵力を分散してサマルカンド、ブハラなど中央アジアの各都市での籠城戦を行なった。
その結果、各都市は綿密な侵攻計画を準備してきたモンゴル側の撃破にあって次々に落城。市民はもとより、犬猫に至るまで、命あるものは全て虐殺され、都市は徹底的に破壊された。
ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した。
この戦いで、耶律楚材はチンギス・ハーンから、戦いの行方を占うよう命ぜられた。彼は、七政四餘により天文を観て、ホラズム王は西へ逃れ、カスピ海の小島に逃れたが、病を得て、今まさに死なんとしていると占断した。
実際に、アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先のカスピ海上の小島で病没している。
やがてチンギス・ハーンが没すると、耶律楚材は息子のオゴデイに使えた。
占領した支那中原の地の捕虜を、全て殺戮して無人化すれば、遊牧に適した土地になるとの意見もある中で、捕虜たちを農民・職人などの職業によって大別し、新たな戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。
新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
やがて、耶律楚材が亡くなると、オゴデイの妃の一人が素材の名声を妬み、相当な蓄財があるものと邪推し、兵を送って家捜しさせた。
しかし、思いの外質素で、目ぼしい財も無く、数典の仏典の他に、卓上に「般若心経」が置かれているのみであったと云う。