占星術のお話

西洋占星術について、思いついた事柄を無作為に語らせて頂いております。

占星術師 耶律楚材(1)

今回は、モンゴル帝国を築いた成吉思汗(チンギス・ハーン)の側近くに仕えた占星術師の耶律楚材について書いてみた。

耶律楚材の略歴については、Wikipediaから引用させて頂いた。

以下引用。

楚材の家は、遼の太祖・耶律阿保機の長男である東丹国の懐王(義宗・天譲帝)耶律突欲(とつよく)8世の孫で、遼の宗族出身であり、出自は契丹人であるが、代々中国の文化に親しんで漢化した家系である。

遼の滅亡後は金に官僚として仕え、祖父は耶律聿魯で、父の耶律履は金制においては宰相級の重職である尚書右丞に昇った。

楚材は父が高齢になり、三男(末子)として生まれた子で、3歳の時に父が61歳で死んだため漢人である生母の楊氏に厳しく育てられた。また、異母兄の耶律弁才・耶律善才は彼よりも20歳も年が離れていたが、彼は生母と共に兄たちから養われたという。

成人すると宰相の子であるために科挙を免ぜられ、代替の試験を首席で通過して尚書省の下級官僚に任官した。

モンゴルが金に侵攻したときは首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落したとき捕虜となった。

楚材は家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、中国の天文と卜占に通じていたためチンギス・ハーンの目に止まり、召し出されて中国語担当の書記官(ビチクチ)となり、ハーンの側近くに仕えることになった。

1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行してもっぱらハーン側近の占星術師として働き、そのときの体験と詩作を『西遊録』に残した。

引用は以上